うそとほんとすなとねこ

風の向くまま気の向くまま、自称読書家が今まで読んだ本を羅列する程度のブログです。

カミュ「異邦人」

 

 どうも、沙猫です。今日も楽しく、私の心をびりびりと震わせた本を紹介していこうと思います。当然のようにネタバレを含むのであらかじめご了承ください。

 

今日のお題はアルベール・カミュの名著『異邦人(窪田啓作訳、新潮文庫、1954年初版)』です。

 主人公ムルソーは一言でいうと、「無関心な男」。

 母親の死に涙一滴流さないし、恋人との結婚も友人との関係も、挙げ句の果てには自分の運命さえも、どうなろうとかまわない、と無頓着。『異邦人』の原稿には当初『無関心な男』という仮題がついていたそうですが、成る程納得ですね。

 そんな彼は友人達と出かけた矢先、あるアラビア人を撃ち殺してしまうのですが、法廷では動機について「太陽のせい」と語ります。

ここだけ見ると、何とまぁ電波な主人公だとお思いでしょう。しかし私は、この無関心な男の生き様にひどく心を動かされたのです。

 

 結論からいうと、私が思うに、ムルソーは大河に浮かぶ流木のような男なのです。ただ厭世的な男という訳ではないんです。

 確かに彼の発言には、「どっちでもいい」「私にとってはどうでもいいこと」といった投げやりなものが目立ちます。恋人の女性と共に過ごす場面では、彼は彼女に対し「欲望」こそ抱きますが「愛した」とはいわなかったところも、彼の非人間性を強調します。

 しかしムルソーは自分の運命に、強い自信をもっているのです。

 母親の死からアラビア人の殺害までに、彼は二度、太陽の暑さについてこう言及しています――逃げ道はないのだ、と。また、彼は自分の裁判が終わってからこうも考えます。ただ一つの宿命が自分自身を選んだのだと。宿命の前では今死んでも、20年後に死んでも同じなのだと。

「一歩体をうつしたところで、太陽から逃れられないのも、わかっていた。」(p.77)太陽を「宿命」のたとえだとするなら、彼は自分の「なんとなく」な直感を生む「宿命」から逃げようとしないのです。宿命に殺せと言われれば殺すし、明日死ぬぞと言われればその死を喜んで受け入れる。宿命がどんなに理不尽でも、邪魔する奴は許さない。

 そういう根本を風任せにした、川を流れる流木みたいな生き様に、私はビリビリっときたというわけなのです。

 

 

異邦人 (新潮文庫)
 

 

異邦人 (新潮文庫)

  今日もありがとうございました。

 

 次回はちょっとゆるめの現代小説を紹介したいと思います。お楽しみに。