うそとほんとすなとねこ

風の向くまま気の向くまま、自称読書家が今まで読んだ本を羅列する程度のブログです。

【評論】ミシェル・ヴォヴェル『死の歴史』【長い】


どうもお久しぶりです、沙猫です。


さて、先日リメンバーミー評を書いた所評判がよろしかったようで、それこそ『レインツリーの国』の記事を抜くアクセス数。感謝の極みでございます。

調子に乗った沙猫は味を占めて、さっき話した「研究」の参考文献を紹介しようとするのです。何の研究かって?「死生観」ですよ。私、文学も読むけどカニバリズムとか生き死にとか宗教とか、身の毛もよだつタブーぎりぎりをせめてくるテーマについての本を読むのも好きなんです。

それでは聞いてください、ミシェル・ヴォヴェル『死の歴史』。


 先ずは私の思う死生観について聞いていただきたい。

 この世に生まれた人なら誰しも「死んだら人はどこへ行くのか」って事は気にすると思うんですよ。それに関しては誰もわからないから、皆いろいろな観念を持っているんです;消えてなくなるって言う人、新しい魂に即座に生まれ変わるって言う人、幽霊としてふわふわ浮かぶって言う人。

 この認識の食い違いが死後の世界を怖いものに見せるんです。だから沙猫は、そういう沢山の仮説を分析して、人が死んだ後に通るルートを導きだしたい。そうして死の不安と闘う人に「お前ら死んだらこうなるよ」と、怖がらなくてもいいと言いたいのです。


 この本は主に西洋世界での葬式と他界観の変遷について記しています。

 通して見ると、古代世界では死を忌避する風潮が、今ほど強くなかったように見えました。確かに親しい人の死はつらいものだけど、それは生命のなかで誰しも通る道だと受け入れていた、ように見えた。

 その空気が変わったのは、黒死病が14世紀に流行して、死がずっと身近になってから。

 苦しみながら布団に伏せって、死にながら生きているような人が増えました。体中黒い斑点でいっぱいにして、早く楽にしてくれと願う人。医学が発達した近代以降には、14世紀よりずっと病気の種類が見えて、死にながら生きる人を病院で頻繁に見るようになりました。

 葬儀屋が現れました。今まで教会の手を借りながら自分たちで死者を看取っていたけれど、病気の流行が酷くて教会だけじゃ追いつかなくなって、ついに専門業者の手を借りるに至りました。

 人々は家族との結びつきをより強めるように努めました。また流行病とか不慮の事故があったら自分もいつ死ぬかわからない、皆が畳の上で死ねるとは限らないって思い出したのです。だから遺言状や日記の習慣や、家族に覚えておいてもらえる事の大切さが芽生えはじめたのです。

 死にながら生きている時の事や、死んだ後の事を誰かに任せれば手間は減るけど、それでは何だか味気ない。遺族が淋しがったり、寧ろ淋しがってくれる人も居ない事が、つらい。だらだらと苦しくて孤独で書類仕事みたいに味気ないものに見えだしたから、死は皆があんまり話したくない事になったのでしょう。誰しも避けては通れないというのに。

 ここについては皆さんいろんなお考えをお持ちでしょうが、少なくとも私はこれを読んでこう考えました。


 最期に。いや、最後に。『死の歴史』で書かれた面白い死生観をご紹介しましょう。

 放浪の民族ジプシー(ロマともいいます)をご存じですか。彼らは死んだ仲間をなるべく早く忘れるようにしているのですよ、遺品を捨て、話題にも出さないで。

リメンバー・ミー」をご覧になった人ならご存じだと思いますが、あの映画で語られたメキシコの冥界には「生者の記憶から完璧に消えた死者は塵になる」という定めがございます。フィクションかもしれませんが、人間社会で死の影が濃くなったが故の哀しい定めです。

 この話と比べると、ジプシーの習俗はやや冷淡に感じられます。ですが土地から土地へと旅をしてきた民族にとっては、過去の悲しみをいつまでも引きずるよりは、記憶をリセットして新しい関係で上書きする方が幸せなのでしょうか……


死の歴史―死はどのように受けいれられてきたのか (「知の再発見」双書)

死の歴史―死はどのように受けいれられてきたのか (「知の再発見」双書)


自分が死んだ後の処置だけでなく、悲しみ方も、話し合っておくべきなのかもしれませんね。

次回もまた読んでください。

あやややーい!