うそとほんとすなとねこ

風の向くまま気の向くまま、自称読書家が今まで読んだ本を羅列する程度のブログです。

ジョージ・オーウェル『1984年』【後編】

どうも、沙猫です。『1984年』書評、読んでくださり有り難うございました。

 昨日の回では全体主義国家オセアニアの「二重思考」について書きましたが、

(まだ読んでない人はここ↓から飛んで読んでね)

 

hontsandnyanko.hatenadiary.com

 

今回は物語のなかでも特に心に残った部分を考察したいと思います。

 当たり前ですがネタバレです。予備知識の無い状態で読みたい方はこの辺でお戻りください。

 

 

 

 

 

以下物語の核心に迫るネタバレ

 

 

 

 

ウィンストン氏は、同じ反体制派と思しきオブライエンという男に誘われ、彼の屋敷で秘密の打ち合わせをします。
志を同じくする者に会えたのを喜ぶのもつかの間、氏は憲兵に囚われ「改心」の為の収容施設へ。反逆者は反抗したまま殉じるのは許されず、ここで間違いを認め更生して初めて処刑されるのです。
氏がそこで対面したのは、事もあろうにオブライエンその人でした。彼が氏に語った「『偉大な兄弟』が権力に拘る理由」はこの一言に集約されるでしょう――
「権力の目的は権力それ自体にある」
つまり、人々を統治する手段として権力を行使するのではなく、権力を保つために権力を追求するのです。


党員達が一人でオセアニアを・ひいては世界を支配する事などできやしません。でも幾人か集まってグループで行動すれば、或る程度の権力は持てます。
しかし「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、グループを作ると意見に食い違いが起こって面倒臭い事もあります。でも頭の良い奴・もしくは多数派の意見に従っておけば簡単に解決できるのです。赤信号皆で渡れば怖くないってやつです。

次第にグループは大きくなり、後輩のメンバー(平党員)が増え、自分達の話に耳を傾ける外の人間(プロレ)も増えます。外の人間は大体グループの考えに詳しくなく(実際プロレはリテラシーに劣る場合が多く、ただ党のもたらすものを享受するだけの立場です)「あのグループって俺たちより頭良いから、難しい事は任せとけばいいよね」とすんなり従ってくれます。
後輩も同じ事です。グループの先輩や古参メンバーの考えを自分の考えに置き換える事で、グループ内の安定を保ちます。或る程度知識がある分、従わせるのは難しいのですが……できないなんて事はありません。前述した「二重思考」があったでしょう。彼らの「2足す2」が4だったとしても、グループの人間はみんなすすんで5と言うことになっているのです。

でなきゃ拷問でも何でもして、2足す2は5だと自発的に言うようにさせるのです。

つまり「あいつらに従っとけば間違いない」と自発的に思わせる事が最高の方法なのです。

 

ウィンストン氏がプロレを革命の切り札だと思ったのには、こういう理屈が根底にあったんですね――個々人が変な事を「何か変だ」と思い、自分の意見をしっかり持つようにすれば、独裁が進む事はありません。
……逆に言うと「自分よりあんまり考えてない諸氏」が相手だったら、上手いこと言いくるめられれば我々も容易に独裁ごっこができるわけです。ちょうど下級生に威張りちらす運動部の上級生みたいにね。

さぁ諸君! 我々ももっと知識や人脈をつけて「あなた方に任せれば大丈夫だ」と言われる人間になろうじゃありませんか。そして同志達と共に絶対的な地位をつけようではありませんか。
もうスピーチで差別発言しても、古い友達から賄賂を貰っても、大事な事業の結果が想像より酷くなってしまっても大丈夫ですよ!

だってその頃には諸君は「あなた方が間違えるわけがない」って皆に思われているでしょう?

以上! すなねこでした! Let's独裁!

 

 

 

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

 

ジョージ・オーウェル『1984年』【前編】

どうも、沙猫です。

さて皆さん、失言って困った問題ですよね。
おありでしょうこんな経験。
雑学の大家だと周りに言われて調子に乗り、テレビのクイズ番組で自信満々に誤答した。
障害者は生産性が無いとか教育勅語は悪いもんじゃないなどと言って、政治・社会学系ツイッタラーに見つかり吊るし上げられた。
とにかく合ってると思い込んで言った事が(色んな意味で)間違っていて恥ずかしい思いをした。
わかります。沙猫もよくやらかしました。それで友達が二、三人消えました。

そんなあなたにぴったりの本があります。ちょっと難しいけど、間違いを無かった事にするには最適な答えを教えてくれるでしょう。
それでは聞いてください。ジョージ・オーウェル1984年』。


行き過ぎた共産主義社会を描いたディストピアとして70年以上(来年でちょうど世に出てから80年!)も読み継がれ、名前だけは知っているという人も多いでしょう名著『1984年』。分厚いし社会学みたいな堅苦しいイメージをお持ちの方もいらっしゃるでしょうが、意外と読みやすいものでしたよ。

まず世界観が驚きの連続でした――地球上にあった国々は大国連合3つのうちのどれかに統合され(例えば主人公ウィンストン氏が暮らすイギリスは「オセアニア連合国」の一部に、共産主義大国旧ソ連は「ユーラシア」我らが日本は「イースタシア」に)、3ヶ国の連合は日夜対立し続けています。
さて、オセアニア連合国を独さ……統治しているのが「偉大な兄弟(Big Brother)党」で、氏もこの党員です。総人口の一割にも満たない党員、その中でもほんの僅かな党の上級幹部が、国の大多数を占める無産市民(prole プロレ)階級の生活を管理しています。
この社会体制がまぁほんとに恐るべきものでして。共産主義の原則に乗っ取り食べ物から剃刀の刃に至るまで、あらゆる物資が配給制。さらには人々の精神すら思い通りにできるというんだから――寧ろ精神を管理しているからこそモノにも同様にできるらしく――全くぶっ飛んだ理屈であります。
で、どうやって「精神を管理」するか。簡単です。党ができなかった事を「聞いてたけど聞かなかった事」にすれば良い。この方法は「二重思考(double think)」といわれます。

例えば国で「戦況がうまくいってるからパンの配給を増やせそう」と報道されたとしましょう。国民には嬉しい事ですね。
ところが実際にパンが配られると、それ程多くもない、寧ろ減っている。誰だって何事かと疑うでしょう。政府に嘘つかれたと憤慨する人もいましょう。
そこで二重思考法の出番です。

「別に党は配給増やすなんて言ってない。いいね?(念押し)」
国民「アッハイ」

党員もプロレもそう思い込み、党は守れない約束なんかしてなかった事になります。

 

あとは簡単。過去の公式な記録について、プロレ諸君は「(ほんとは聞いてたけど)聞かなかった」ふりをします。党員諸君はそれに加えて、過去の公式な記録を改ざんして(「ほんとは」聞いてなきゃできない事です)思い込みを真実(笑)にするだけです――真実は各人の頭蓋骨の中に封印されたのです。
ね、完璧でしょ?

 

「ごまかさないで対策とりゃいいのに」と思った人が画面の向こうに何人いる事でしょう。ウィンストン氏もそう考えていました。でもそうできないんです、党がミスをした事を認める事になるから。偉大な兄弟は間違えませんから。

 

「偉大な兄弟の判断は絶対」である理由は後で語るとして、今は氏がどうしたかを話す事にしましょう。
「なんかちがう」と心にもやもやしたものを抱えた氏は、こっそりと日記に思いの丈をしたためます。プロレの町に、監視の目が及ばぬ隠れ家を持ちます。プロレこそが(意識さえすれば)党を倒す切り札になると信じます。
そして偶然にも党の中に、自分と同じ考えを持つ女性を見つけ、密かに交際し始めるのです……

 


これ久々に長くなりそうな話ですね。

2パートに分けようと思います。後半、というか最大のネタバレは明日。

また読んでやってね。

 

夏目漱石『夢十夜 他二篇』(「文鳥」「永日小品」)

どうも、ドイツ帰りの沙猫です。
今回は私が留学していた時、日本から持ち込んで心の支えにしていた本について語りたいと思います。Twitterに読書メモ上げてたから知ってる人は知ってたかもね。
 それでは聞いてください『夢十夜(他二編)』。


きっとニュースでご存じの方もいらっしゃるでしょうが、六月だか七月に夏目漱石のお手紙が発見されたそうですね。まだ作家でもなかった若い漱石は、イギリス留学の事で友達に「心細くて日本が恋しい」と書いています。
私はこの八月、一か月ちょっとドイツで語学研修に行っていましたが、当時の漱石の境遇に共感するものがあり、この本を持っていく事に決めたのです。

漱石のイギリス行を書いた話といえば『倫敦塔』ですが(当方未読)、今回読んだ短編に収録されている『永日小品』そして『夢十夜』にも留学での経験がよく書かれています。
まず前者(「永日」)から。

 

「永日」は漱石が新聞連載していた小品で、イギリスでの話は全24話中8話ございます。実に3分の1。よほど印象深い経験だったんでございましょう。
彼はしばしば町を歩いたときに「似た家が多くて帰り道がわからない」と書いていました。下宿もあるし教えを請える先生もいるけど(「クレイグ先生」より)、どうしたって異国は異国です。完全に言葉が通じるわけじゃありません。実際彼は、教授と話していても、訛りがきつくなったときはどうもわからず、適当に相槌をうちながら聞いたこともありましたから。言葉がある程度通じるとはいえ完全にはわからないのです。

その中でも特に、手紙のさびしさを髣髴とさせるのが「印象」という話。

 

『 自分はこの時始めて、人の海に溺れた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。』

夏目漱石「印象」『夢十夜 他二篇』より)

 

広い割には極めて静かな海――会社へ一心不乱に歩みを進める、通勤ラッシュのサラリーマンをイメージするとわかりやすいと思われます。目的も出自もばらばらな、そのくせ羊のように群れている人間の集団。
隣を歩く人間とのどうでもいい会話すら、言語の壁――いやむしろ彼らを取り巻く重い空気によって阻まれた「人の海」の中で、漱石の心にのしかかった負担感はいかほどのものであったのか。

 

漱石の留学体験が活かされている……と思しき作品は、この本の中にもう一つあります。それが「夢十夜」の第七夜。
主人公は行き先もわからぬままに、大きな船に乗っているところ。大勢の乗合は大抵が異人で、主人公に頓着する事も無く、泣いたり唄ったりしています。心細くて、つまらなくて、主人公は入水自殺を試み……やっぱり乗っている方がよかったと「無限の後悔と恐怖とを抱いて」海に落ちていくのです。
「永日」を読んだ時、私はその孤独感を「第七夜」と共通のものだと読み解きました。自分と無関係に世界が回っていく孤独感、見知らぬ地でどうなるかもわからない恐怖感は、留学体験が礎になっているのではないでしょうか。

 

夢十夜 他二篇 (岩波文庫)

夢十夜 他二篇 (岩波文庫)

 

 すなねこでした。
この読みやすさと「孤独」や「社会と労働」などといった身近な主題のおかげで、最近夏目漱石ブームがきてます。
皆も漱石を読んでみるといいね。それでは。

【詩】パウル・ツェラン「死のフーガ」

 どうも、お久しぶりの沙猫です。

すいませんね。ドイツの語学学校行かせてもらってました。そのせいでネタはあったくせに中々書けずにいました。屑です。


今回はいつもと趣向を変えて、自分が最近気に入った詩の紹介。

また縁起でもねえ話なんだろって? ご名答。面倒な二学期の幕開けにふさわしい縁起でも無い詩です。

それではご覧ください、パウル・ツェラン「死のフーガ」。


 まずは以下のリンク二つをたどっていただきたい。それぞれ朗読の動画と詩の全訳が載ったブログです。朗読は作者のツェラン氏本人によるもの。ドイツ語注意な。


https://youtu.be/gVwLqEHDCQE

https://warabipoem.exblog.jp/10077782/


どうです。人によっては左腕と邪気眼がうずき出す人もいるのではないでしょうか。

「夜明けの黒いミルク」ですよ。これを朝に、昼に、晩に飲むんですよ。「宙に墓をほる」んですよ。退廃的な雰囲気が立ちこめている。それでもってダンスの曲とか、「金色の髪」とか、変なところで華やかなテーマを差し込んでくるのがずるい。黒いワンピースの胸元の、真珠一粒ついた銀製ブローチのよう。

敢えて頭悪く言わせてもらいます。

ほんとすこ。最オブ高。


 ……とまぁいつも以上にフリーダムな語りでお送りしましたが、ここからはこの詩ができた経緯について。

 作者パウル・ツェランドイツ第三帝国時代を生き延びたユダヤ人。強制収容所へ送られ、ユダヤ人の扱いに胸を痛めて、この詩は当時の経験を浪漫的に誇張して書いたものといわれています。(それにしたって誇張がすぎませんかねぇ?)


私が好きなのは「夜明けの黒いミルク」を飲むところと、「きみの金色の髪マルガレーテ きみの灰色の髪ズラミート」ってところ。


それぞれを解説していくと、

夜明けの黒いミルク=(直訳すると「夜明けが所有する黒いミルク」)毎食振る舞われる収容所の臭い飯。ただすり減らす為の命を長らえさせるもの。

マルガレーテ=ドイツの典型的な名前。ドイツのアイデンティティの一『ファウスト』に出てくる美しい悲劇のヒロインの名です。金髪碧眼は純粋ゲルマン人の象徴。

ズラミート=聖書に登場する女性の名前で、ユダヤ人の所象徴。「灰色」なのは気苦労で白髪になったからだと予想できます。


「夜明けの黒いミルク」を飲み、もはやドイツの地に居場所を無くしたユダヤ人は、日々「宙に墓を掘る」のです。そんな彼らの気分に構わず蛇(ナチスの仲間)と戯れる男(将校)は、ダンスの曲を奏でるよう言います。士気高揚の為ですね。


そしてここからの急展開がまた臨場感を高めてくれるのです。地を掘れ…歌え…奏でろ…と矢継ぎ早に命令をする男。まるでテンポの早いダンスの曲みたいにね。

そしてベルトの金具に手を伸ばし、ねらいたがわず……

……ツェランは収容所で母親を銃殺されたと語っています。この場面は、彼のこのつらい記憶を象徴しているのでしょうね。


リンク先で「夜明けの黒いミルク」は“純粋なドイツ人の時代の幕開けと、排除されたユダヤ人の黒い影”を象徴しているとありました。

だけど私はこの言葉に、不安な気持で最悪な一日の幕開けを待つ、憂鬱な気持をくみ取りました。

……冒頭で私は「二学期の幕開けにふさわしい」と書きました。殆どの読者の皆さんは憂鬱でしたでしょうね、夏休みの最終日。チンプンカンプンな宿題の提出日と、会いたくないボケナス連中との再会を待つだけの日々。

ユダヤ人達はこんなもんじゃないくらい憂鬱な迫害の日々を暮らしていました。

黒いミルクの夜明けってのは、そういう嫌な一日の始まりを告げているんだと思います。私は。



初回から不謹慎極まりないすなねこでした。

ちゃんと学校行けよ。お前等は自由なんだから。外に出なきゃ始まらないものは沢山あるぞ。

【評論】ミシェル・ヴォヴェル『死の歴史』【長い】


どうもお久しぶりです、沙猫です。


さて、先日リメンバーミー評を書いた所評判がよろしかったようで、それこそ『レインツリーの国』の記事を抜くアクセス数。感謝の極みでございます。

調子に乗った沙猫は味を占めて、さっき話した「研究」の参考文献を紹介しようとするのです。何の研究かって?「死生観」ですよ。私、文学も読むけどカニバリズムとか生き死にとか宗教とか、身の毛もよだつタブーぎりぎりをせめてくるテーマについての本を読むのも好きなんです。

それでは聞いてください、ミシェル・ヴォヴェル『死の歴史』。


 先ずは私の思う死生観について聞いていただきたい。

 この世に生まれた人なら誰しも「死んだら人はどこへ行くのか」って事は気にすると思うんですよ。それに関しては誰もわからないから、皆いろいろな観念を持っているんです;消えてなくなるって言う人、新しい魂に即座に生まれ変わるって言う人、幽霊としてふわふわ浮かぶって言う人。

 この認識の食い違いが死後の世界を怖いものに見せるんです。だから沙猫は、そういう沢山の仮説を分析して、人が死んだ後に通るルートを導きだしたい。そうして死の不安と闘う人に「お前ら死んだらこうなるよ」と、怖がらなくてもいいと言いたいのです。


 この本は主に西洋世界での葬式と他界観の変遷について記しています。

 通して見ると、古代世界では死を忌避する風潮が、今ほど強くなかったように見えました。確かに親しい人の死はつらいものだけど、それは生命のなかで誰しも通る道だと受け入れていた、ように見えた。

 その空気が変わったのは、黒死病が14世紀に流行して、死がずっと身近になってから。

 苦しみながら布団に伏せって、死にながら生きているような人が増えました。体中黒い斑点でいっぱいにして、早く楽にしてくれと願う人。医学が発達した近代以降には、14世紀よりずっと病気の種類が見えて、死にながら生きる人を病院で頻繁に見るようになりました。

 葬儀屋が現れました。今まで教会の手を借りながら自分たちで死者を看取っていたけれど、病気の流行が酷くて教会だけじゃ追いつかなくなって、ついに専門業者の手を借りるに至りました。

 人々は家族との結びつきをより強めるように努めました。また流行病とか不慮の事故があったら自分もいつ死ぬかわからない、皆が畳の上で死ねるとは限らないって思い出したのです。だから遺言状や日記の習慣や、家族に覚えておいてもらえる事の大切さが芽生えはじめたのです。

 死にながら生きている時の事や、死んだ後の事を誰かに任せれば手間は減るけど、それでは何だか味気ない。遺族が淋しがったり、寧ろ淋しがってくれる人も居ない事が、つらい。だらだらと苦しくて孤独で書類仕事みたいに味気ないものに見えだしたから、死は皆があんまり話したくない事になったのでしょう。誰しも避けては通れないというのに。

 ここについては皆さんいろんなお考えをお持ちでしょうが、少なくとも私はこれを読んでこう考えました。


 最期に。いや、最後に。『死の歴史』で書かれた面白い死生観をご紹介しましょう。

 放浪の民族ジプシー(ロマともいいます)をご存じですか。彼らは死んだ仲間をなるべく早く忘れるようにしているのですよ、遺品を捨て、話題にも出さないで。

リメンバー・ミー」をご覧になった人ならご存じだと思いますが、あの映画で語られたメキシコの冥界には「生者の記憶から完璧に消えた死者は塵になる」という定めがございます。フィクションかもしれませんが、人間社会で死の影が濃くなったが故の哀しい定めです。

 この話と比べると、ジプシーの習俗はやや冷淡に感じられます。ですが土地から土地へと旅をしてきた民族にとっては、過去の悲しみをいつまでも引きずるよりは、記憶をリセットして新しい関係で上書きする方が幸せなのでしょうか……


死の歴史―死はどのように受けいれられてきたのか (「知の再発見」双書)

死の歴史―死はどのように受けいれられてきたのか (「知の再発見」双書)


自分が死んだ後の処置だけでなく、悲しみ方も、話し合っておくべきなのかもしれませんね。

次回もまた読んでください。

あやややーい!


リー・アンクリッチ (ディズニー/ピクサー)「リメンバー・ミー」後編

 どうも、沙猫です。

 ディズニー・ピクサーの最新作「リメンバー・ミー」ネタバレ感想文、いよいよ後半のネタバレパートです。前編(概要と美術面講評)はこちらのリンクから→(http://hontsandnyanko.hatenadiary.com/entry/2018/04/03/160000 )

 ここから先はもう見た人・アニメも骸骨も見るつもりなんか無えぜ、という人以外はご覧にならないでください。自己責任で。ネ。

 

 

 

 

 

 

 この映画に関しては、離れていても思い出は残るとか、アミーゴの為なら天も地も動かすとか、色々と皆さん感想をお寄せになっています。

 ですが言わせてください。アーティストはまさに命を燃やして表現する者なんだな、と。

 ヘクターさんと旧友のデラクルスさん、嘗て音楽で天下を取ろうとした二人の姿を見て言ったのです。二人の因縁とその顛末は、あまりにも酷く胸を締め付けた。

 

 

 私にも大好きなギター弾きがいます。でも友達に名前を言っても皆二言目には「誰それ知らない」。これを尋ねて「あぁ、あの人? かっこいいよね」が返ってくるミュージシャンになるには、まず相当なセンスが必要。それが足りない者は、定職につけなくても、惚れた異性やその子を養うには程遠くても、必死の努力で埋め合わせねばならないのです。

 

 全国ツアーに出た二人が立たされた道もそう。音楽活動を辞めて定職に就くか、安定を蹴ってでも芸術を極めるか――妻子の為に故郷へ戻ろうと決めたヘクターさんは、友の裏切りに愕然としたデラクルスさんに殺されてしまいます。

 バンドマンは早いうちに芽が出なきゃおしまいっていうけど……自分の命どころか、同胞まで燃やしてどうするんだよ。つれぇわ。

 

 更につらい事に、遺されたヘクターさんの奥さんは真相を知る事なく、死して尚、とうとうツアーから戻らなかった彼を恨んでいました。

彼女が劇中で十八番のメキシコ民謡「La llorona」を歌う場面がございます。この元ネタは、自分を置いて出て行った元彼と、彼との間に生まれた子を想い、泣く娘の亡霊の怪談。

映画制作陣の皮肉か、彼女が好きで歌ったのか。いずれにせよ、まったく罪作りな男です。

 

youtu.be

 

↑この歌が「La Llorona」です。スペイン語のわかる方もわからない方も是非。

 

 芸術と家庭の両方にいっぺんに命を捧ぐ事は(余程の金持ち以外)できない。

だからミゲル君が「貴方の玄孫です」と(思い込んで)言った時の、デラクルスさんの喜びは本物だったんでしょうね。家庭を捨て音楽に一生をかけ、死後も実家へ戻らないで毎年コンサートを開いていたから。(仮に彼に子孫がいるとしたら、別れた女性との間に子供がいたとか、そういう経緯かな)

 そんなアーティストとファンの一瞬の喜びが、デラクルスさんが前科持ちだったという悲劇的な事実を、いっそう濃く浮かび上がらせました。

 泣いたわ。デラクルスさんから見ても、ミゲル君から見てもさ。泣くわこんなん。

 

 

 言いたいことはまだ山ほどございますが、二部にわたる長丁場にお付き合いくださった事、そのお気持ちが骨身にしみます。

 音楽好きで頑張ってるインディーズの諸君! どうか孤独に負けないで、生きて良い歌をコツコツと世に出してください!  法だけは侵すなよ!

あやややーい!

【映画】リー・アンクリッチ(ディズニー/ピクサー)「リメンバー・ミー」前編

 どうも、沙猫です。
 先日、見に行った映画で柄にもなく号泣して……泣き疲れて帰るやいなや眠ってしまう始末。しかもアニメ映画で。
 もうおわかりですね、弊ブログ二度目の(とても長い)映画感想文でございます。
 それでは聞いてください、ディズニー&ピクサーリメンバー・ミー(Coco)」。

 名前は知ってても話をご存じない方もいらっしゃいましょう。まずはあらすじから。

 

 

主人公は、ミュージシャンを夢見る、ギターの天才少年ミゲル。しかし、厳格な《家族の掟》によって、ギターを弾くどころか音楽を聴くことすら禁じられていた…。ある日、ミゲルは古い家族写真をきっかけに、自分のひいひいおじいちゃんが伝説のミュージシャン、デラクルスではないかと推測。彼のお墓に忍び込み美しいギターを手にした、その瞬間──先祖たちが暮らす“死者の国”に迷い込んでしまった!

そこは、夢のように美しく、ガイコツたちが楽しく暮らすテーマパークのような世界。しかし、日の出までに元の世界に帰らないと、ミゲルの体は消え、永遠に家族と会えなくなってしまう…。唯一の頼りは、家族に会いたいと願う、陽気だけど孤独なガイコツのヘクター。だが、彼にも「生きている家族に忘れられると、死者の国からも存在が消える」という運命が待ち受けていた…。絶体絶命のふたりと家族をつなぐ唯一の鍵は、ミゲルが大好きな曲、“リメンバー・ミー”。不思議な力を秘めたこの曲が、時を超えていま奇跡を巻き起こす!

 (以上、https://www.disney.co.jp/movie/remember-me/about.html から引用、2018年4月3日アクセス)

 元々私は、アニメがそんなに好きじゃないんです。深夜系番組などもってのほかだし、某玩具物語とか某ユアネームだって、皿洗いしながらチラ見するくらい。
 でもこの度、ディズニーの甘い罠にまんまとかかってしまいました。
 骸骨 と 音楽 です。
 研究論文を書く程お化けに傾倒し、インディーズギタリストのライブと弦楽器のCDを常食にする私にとっちゃ、きっと最高の五感の保養。そう思ってつきあいの長いアミーゴを呼んで見にいってきた訳です。

 ここからは「リメンバー・ミー」の魅力に視覚芸術面・物語面と2記事に分けて迫りたいと思います。後者はネタバレを含むのでこれから見ようって人はこの記事だけで引き上げてね。
 
 まずは視覚的芸術面。
 ミゲル君が行った死者の国は、幾重にも市街地が積み重なって、暗い背景のなかに見るとランタンのよう。天国を目指す骸骨達の物見やぐらなのでしょうか。
 住民も皆魅力的です。骸骨は人体が遺せる、肉塊に隠された最後のアートだと思うのですが、ぱっと見じゃ個人どころか性別すらわかりにくいし、個性を出したいなら装身具や服を着せるか……くらいしないと。
それがここまで区別をつけられるとは思わなんだ。眼窩の奥の優しい目、悪戯者の目、厳しそうな目。そして頭蓋骨に書き足されたきらきら光る文様。
 骸骨だらけ(おまけに怪獣も!)の街といったら一部の人には阿鼻叫喚の地獄絵図だけど、顔つきや性格・人生が、骨にまでしみついているから、人間味を感じられるんでしょうな。
 よい子の皆! なるべく良いお顔で毎日過ごせよ! 火葬後の遺骨も良いお顔になるぞ!


後編はお待ちかねの物語面です。未鑑賞の皆さん、ネタバレと暴言のバーゲンセールですよ。お帰りになるなら今のうちですよ。